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ドクターコラム VOL.33

ドクターコラム

「日本の近代小説を読もう」

今年の祇園祭の通信からコラムを更新せずに3月が経ちました。
こんなに長いお休みは連載を初めてからなかったことです。
ゴールデンウイークから心にかかることが重なりました。 新型インフルエンザというまったく新しい病気に出会ったことがその一つです。5月と比べ比較にならない流行を見せている今ですが、全く新しい病気という認識が必要、と特に小児科の医師は感じています。

7月で開院3周年を迎え、患者さんの診療を振り返ると、近頃、頭をもたげた強迫神経症的な性向のせいで思わぬ時間がとられたりしました。 そして、気がついてみるとこの間一冊の本も読めていませんでした。
そんななか以前に購入し、いつもソファの上に積んでいた、日本の近代小説を読もう水村美苗「日本語が亡びるとき-英語の世紀のなかで」(筑摩書房)をシルバーウイーク(こういう呼び方があったのですね)にふと読み始め読み通すことができました。少し一息つけたという思いがしました。

質の高いバイリンガルの養成の必要性や、国語教育における日本近代小説の購読の提唱など(タイトルもそうですが)で話題になり、多くの書評で取り上げられたので読まれた方もおられると思います。

私はこの本をまず日本近代小説論として読みました。
私たちの世代の明治大正の近代小説に対する考えは中村光夫の「風俗小説論」(新潮文庫)「日本の近代小説」(岩波新書)などから形成されたものです。
いわゆる私小説といわれ、身辺雑記や心境吐露に終始し人生の真実や社会の正義などにかかわることのないと批判されました。もちろんそれは「人生とはなにか」 「真実とは何か」に正面から向きあう欧米の近代小説を小説の模範とした観点からの批判です。
水村によると日本の近代小説はまず「現地語」(日本で使われている言葉)を「国語」に高めた人たちが創造したものです。
明治の人たちは外国語(仏語、独逸語、英語)を驚くほど読み、翻訳し日本語という国語を確立しました。近代小説の作家たちも例外ではありませんでした。
日本の近代小説は何よりも読むに値する創造された「国語」によって書かれたものです。読み継がれるべき小説と高く評価されています。
余談ですが読んで驚いたのですが、明治・大正の作家の実に多くが東京帝国大学で学んだり教壇に立っていたかです(漱石、鴎外はもちろんのこと坪内逍遙、正岡子規、上田敏、斎藤茂吉、志賀直哉、谷崎潤一郎などなど)。

次にこの本を、英語を母語としない国の人間が学問をすることの方法論として読みました。
特に人文科学や社会科学を志すものにとっての宿命といってよい、制約に関する議論です。
仕事が評価されるためには、何よりもまずその領域のトップランナーや若きエースにこぞって読まれなけれ
ばなりません。そこからしか始まりません。
そして、現代は副題にもあるように英語の世紀です。英語が普遍語として世界を席巻しています。
学問をする人間はまず何はおいても英語で書かなければなりません。上で言うバイリンガルは日本語以外に外国語を書ける人でなければなりません。 このことは自然科学(サイエンス)に携わる者は早くから痛感していたにもかかわらず、克服することの難しさにはがゆい思いをしていたはずです。
学問を志す若い人にもっと読まれていい本と思います。

次の連休には谷崎を読もうと思って、昔実家にあった中央公論社発行の青の背表紙の「日本の文学」
シリーズ
を懐かしく思い出しました。10年ほど前実家の売却のあたりほとんど破棄する形で手放したのでなおさらです。今でも手にはいるのかしら。

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